2017年01月 第35号

渡 邊 先 生 略 歴


渡 邊 公 綱 (わたなべ きみつな)

 同人は、昭和16年2月19日に大阪府に生まれ、三重県で育った。昭和42年3月に東京大学教養学部基礎科学科を卒業、昭和47年3月に東京大学大学院理学系研究科相関理化学専門課程博士課程を修了し、理学博士(東京大学)の学位を取得した。同年4月に株式会社三菱化成生命化学研究所に研究員として赴任した。昭和50年9月から52年12月まで博士研究員として、西ドイツマックス・プランク実験医学研究所に留学した。昭和55年7月に、東京大学農学部農芸化学科に助教授として赴任し、昭和59年4月には同大学工学部工業化学科に助教授として異動した。昭和63年3月に、東京工業大学大学院総合理工学研究科生命化学専攻に教授として赴任し、平成2年6月に同大学生命理工学部生体機構学科教授を歴任後、平成3年9月に東京大学工学部工業化学科教授に就任した。平成8年4月に大学院重点化による組織換えに伴い、同大学大学院工学系研究科化学生命工学専攻の教授に就任し、平成11年4月には、同大学大学院新領域創成科学研究科先端生命科学専攻教授に配置換えされた。平成15年5月からは、独立行政法人産業技術総合研究所生物情報解析研究センターのセンター長を併任した。平成16年3月に東京大学を定年により退職後、平成16年4月より(独)産業技術総合研究所生物情報解析研究センターのセンター長を専任した。平成16年6月には東京大学名誉教授の称号を授与された。平成20年4月から平成22年3月までは、(独)産業技術総合研究所バイオメディシナル情報研究センターの研究技術総括を担当した。平成22年4月に、東京薬科大学生命科学部の客員教授に就任し、平成27年4月には、同所属の客員研究員として研究活動を行っていた。

 同人は、半世紀にわたり、生化学、生物物理学、分子生物学、分析化学、生物工学など広汎な分野で先端的な研究を行うと共に、広い見識、温厚な人柄と新しい研究分野の開拓への熱意をもって学生及び後進の教育指導に尽力された。同人は、生化学、特にRNA研究において世界的なパイオニアの一人であり、その発展に多大な貢献をした。また、基礎科学のみならず工学における生物学の発展にも寄与した。同人の研究業績は、197編の原著論文、24編の総説、シンポジウム抄録60編、52編の和文著書にまとめられている。 

 研究内容は主としては、転移RNA(tRNA)の構造と機能およびタンパク質合成に関する研究である。同人の研究は、生物物理学を基盤とし、tRNAの立体構造とtRNA中に含まれる修飾塩基の構造解析や機能解析が中心となっている。数々の優れた成果の中で、高度好熱菌tRNAに含まれる2チオリボチジミンがtRNAの耐熱性に寄与していることを示した研究や、ミトコンドリアtRNAの特異構造や新規な修飾塩基の発見、ミトコンドリアタンパク質合成に関する一連の研究は、オリジナリティの高い成果として世界的にも注目されている。 

 同人は、三菱化成生命科学研究所の博士研究員として従事したプロジェクトにおいて、高度好熱菌由来のtRNAの構造及び機能を生物物理学的および生化学的に解析し、この生物が高温環境下で生育するしくみの一端を明らかにした。特に54位の2チオリボチミジン修飾がtRNAの熱耐性を向上させることを発見した。また培養温度の上昇に伴い、修飾率が増加する現象を見出した。この知見は、生育温度にしたがいRNAが修飾率を変化させることで、構造安定性を制御するしくみの存在を世界で初めて示したものである。本成果は、tRNA修飾の構造機能相関を明らかにした研究として高く評価され、1980年度日本生化学会奨励賞を受賞した。またその後、2チオチミジン修飾を司る硫化修飾酵素を同定し、この酵素を遺伝的に欠損すると高温での生育ができなくなることや、生化学的な解析から、硫化修飾の反応機構などを明らかにした。

 同人は、東京大学農学部の助教授に着任した後に、後世動物ミトコンドリアDNAおよびtRNAの解析に着手し、普遍暗号から逸脱した変則暗号を多数発見し、遺伝暗号は不変ではなく変化しうるものであることを示した。特に、尾索動物においてAGAおよびAGGコドンがグリシンに変化していることを示した成果は世界的にも大きなインパクトを与えた。また、ミトコンドリアtRNAの解析から、遺伝暗号変化の分子機構を明らかにした。

 同人は、東京大学助教授から東京工業大学教授の時期に、生体外タンパク質合成系の研究を行い、多くの業績を残した。特に、哺乳動物ミトコンドリアの生体外タンパク質合成系を立ち上げた先駆的な研究はこの分野の発展に大きく寄与した。また、修飾核酸を導入したmRNAを用い、タンパク質合成効率を上昇させることに成功し、工学的な応用研究への道も開いた。

 同人は、東京工業大学教授から東京大学教授の時期に、哺乳動物ミトコンドリアにおける翻訳因子の研究を精力的に行い、国際的にも顕著な成果をあげた。特に、新規tRNA修飾の発見と構造決定、アミノアシルtRNA合成酵素の研究、リボソームタンパク質の同定などを通し、この分野の妥一人者として先導的な貢献を果たした。

 同人の独創性と高い研究技術を要するミトコンドリアtRNAの研究は国際的にも高く評価され、平成4年に国際ヒューマンフロンティアサイエンスプログラムの課題に採択され、PIとして国際共同研究を牽引した。平成9年からは5年間、文部省特定領域研究「RNA動的基盤の分子機構」の領域代表を務め、名実ともに日本のRNA研究の代表となった。第24回核酸化学シンポジウム組織委員長、第17回国際tRNAワークショップのコオーガナイザーを務め、平成10年にはNucleic Acid Research誌の編集委員に選出され、国際的なRNA研究のリーダーの一人として認知されるようになった。同人の一連の業績が高く評価され、平成14年には第55回日本化学会賞を受賞した。

 同人は教育活動においても多大な貢献をした。大学教員として25年間に及ぶ研究教育活動の中で、約200名の学生の研究指導を行った。同人は、常日頃から、流行の研究を追従するのではなく、自身のオリジナルな発想を大きな研究に育て上げることの重要さを説き、学生に高い志と目標を持つよう、指導した。また、研究室のスタッフや学生には、一人一人の意思を尊重し、自由な研究環境と豊富な研究資金を提供し、最大限のサポートを行ってきた。その成果が実り、研究室からはこれまでに大学や国立、民間の研究機関の第一線で活躍する多くの優秀な人材を輩出している。

 同人は、東京大学において、平成5年に工学部工業化学科の学科長を務め、工学部化学系の学科の再編に尽力された。また、新領域創成科学研究科の設立に多大な貢献を果たし、平成11年には新領域創成科学研究科先端生命科学研究系長を務めた後、東京大学の評議員を務め、研究科の発展に尽力した。

 同人は社会活動においても多大な貢献を果たした。主なものとして、日本化学会「化学と工業」編集委員(昭和60年4月から62年3月)、日本生化学会評議員・参与(平成元年10月)、日本分子生物学会庶務幹事(平成3年10月から5年9月)、日本生化学会理事(平成8年10月から10年9月)、日本生化学会JB部門編集長(平成8年10月から12年9月)、日本学術振興会未来開拓学術研究推進事業委員会委員(平成9年6月から11年6月)、日本バイオインダストリー協会評議員(平成9年4月)、基盤技術研究促進センター技術評価委員会委員(平成9年4月から14年3月)、日本学術振興会特別研究員等審査会委員(平成10年4月から12年3月)、日本RNA学会会長(平成16年4月から18年3月)、社団法人バイオ産業情報化コンソーシアム(JBIC)理事(平成15年5月)、独立行政法人産業技術総合研究所生物情報解析研究センター・センター長(平成15年5月)などがある。

 以上のように、同人は東京大学と東京工業大学をはじめとする学術・研究機関において、高い識見、新しい研究に対する情熱と豊かな知識をもって、研究及び学生、後進の教育指導に尽力されると共に、わが国の教育、学術の進展と技術の発展に多大な貢献をされ、その功績はまことに顕著である。

 

~昨年10月の日曜日の朝、好熱菌の生育の測定が終わり、さて帰宅しようかと思った折、訃報を聞きました。渡邊公綱先生201報目の論文のための実験でした。ああ、ご報告が間に合わなかった。~

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 突然の訃報に、私たちは深い悲しみに包まれています。

 私は1990年に、卒研生として渡辺研究室に配属されました。それ以来、渡辺先生は私の唯一のメンターとして、公私ともにずっとご指導を賜ってきました。思い起こせば、いつもニコニコされて、「がはは。」と大声で笑い、楽しそうに研究の話をする姿が浮かび上がってきます。おおらかで、茶目っ気があり、懐が深く、情にもろくて、人格的にも本当に素晴らしい先生でした。私も今では研究室を主宰する立場となり、学生の指導などで難しい局面に立たされることがよくありますが、そんな時は、いつも「渡辺先生ならどうするかな?」と想像しながら、対応を考えたりします。本当にいい先生に恵まれたと思っています。私以外にも、同じように思っている門下生たちがたくさんいることでしょう。

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 昨年の10月16日、日曜日の朝、起きてリビングにおりていくと「渡辺公綱先生が亡くなったよ。。」と野乃から伝えられました。その3日前の夕方6時頃に、鈴木勉さんから研究室に電話にて、渡辺先生の体調がよくないことを伝え聞き、そのまま鈴木勉さんと都内で待ち合わせて入院先の都内の病院へお見舞いに向かいました。

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 2016年10月16日の早朝、渡辺公綱先生が逝去された。その報に接する2週間ほど前に、東京大学農学生命科学研究科の浅川修一さんとともに病床の渡辺先生とお話しする機会があった。その際に、渡辺先生から今後のご自身の研究について前向きなお言葉を伺い、一度は安堵し、先生のご回復を祈っていた身として、残念でならない。

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 私が曲がりなりにも研究者という立場で、今も研究活動を行えているのは、ひとえに渡辺公綱先生のおかげです。渡辺先生からいただくハガキに添えられているメッセージは、いつも解読困難な達筆で、読むのに一苦労するのですが、必ず「一発当ててください。期待しています。」と書き添えてありました。その文章だけは上手に読めるようになりました。これが横川の仕事だ! という研究成果をお見せする前に、渡辺先生がお亡くなりになって、淋しい、悲しい、はもちろんですが、自分がふがいなく、悔しい、という気持ちも少なからずあります。

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 私が渡邊先生の門下に入ったのは1986年4月、修士からである。いまでも大差ないかもしれないが、当時の私はとんでもない学生であった。大学院入試で学部の4年の時に所属した物理化学系の研究室から、生物系の研究室に移ろうと思い立ち、同じ学科内に少し前に新設された三浦研(三浦謹一郎先生)に志望を出した。志望を出すにあたって、三浦先生に一言も断りもなく、合格して三浦研に配属が内定しても、一言も挨拶に行かなかった。とんでもなく非常識な学生であった。

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 あの頃は若かった。将来に対する漠然とした不安を学業以外のことで埋めようとしている、とても優秀とは言いがたい大学生だった。GDP世界二位の経済を享受していた1980年、わたしは渡邊先生の研究室に配属された。三菱化成生命研から東京大学農学部農芸化学科に赴任されたばかりの先生にとって最初の卒業研究の学生であった。先生はまだ三十代。新進気鋭の新任教官にありがちな、学生に対する過度の期待は瞬時に吹っ飛んでしまったにちがいない。

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 渡辺先生、いつかこういう日が来るのかも? と頭では理解しておりましたが、ずいぶん早くて、とても残念です。生前、先生は

「俺が死んだら、葬式は派手に楽しくやってくれ。」

 と弟子たちに語っておられました。お言葉どおり、皆で会場いっぱいにお花を飾りましたよ。お通夜もお葬式も、会葬者の方々が会場に入りきれず、長い行列ができました。盛大だったでしょ? だけど、楽しくはやれませんでした。久しぶりに会う顔ぶれでしたが、皆、さえない表情をしておりました。

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 渡辺公綱先生には言葉では言い尽くせぬほどお世話になっておりましたので、ご訃報に大変なショックを受けました。渡辺先生に最初にお会いしたのは、私が宮澤辰雄先生の研究室で大学院生だったときに、三菱化学生命科学研究所の大島泰郎先生の研究室でした。渡辺先生が書かれた高度好熱菌tRNAの2チオリボチミジンによる耐熱化機構の総説を読んで感激し、西村暹先生にご紹介いただいて、ドイツ留学から戻られたばかりのところに押しかけ、共同研究をしたいとお願いしました。それ以来、ずっとお付き合いいただくことになりました。

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 私が東工大の大学院総合理工学研究科化学環境工学専攻の講師になってG1号館の4階に教官室をかまえ5階に研究室を立ち上げた翌年あたりに、私の恩師の畑辻明先生から、こんど東大の工学部から渡辺公綱先生が名古屋大医学部に転任した永津俊治先生がおられた生命化学専攻の講座の後任教授として着任することをお聞きした。当時、畑研では、メッセンジャーRNAの5′-末端構造を発見された東大の三浦謹一郎先生と共同研究で、キャップ化されたRNAの化学合成の研究をしていた。渡辺先生については、三浦先生の講座の助教授をされていて、核酸化学シンポジウムでも毎年ご発表されていたので、よく存じあげていた。

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 渡辺君を知ったのは、1968年秋、私がアメリカ留学から帰国し、新設された東大農学部の今堀研の助手に配置換した時である。今堀先生は教養学部と農学部を兼任しており、渡辺君はじめ大学院生は皆、教養学部の今堀研にいたので、毎週1回、セミナーの時しか顔を合わせなかったが、渡辺君は院生のボスという感じだった。渡辺君は体が弱く、小学校時代に休学し、ほかの院生より歳をとっているせいか、そのような苦労のせいか、落ち着いた態度を生みだし、それがほかの院生をひきつけていたのかもしれない。

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