私が東工大の大学院総合理工学研究科化学環境工学専攻の講師になってG1号館の4階に教官室をかまえ5階に研究室を立ち上げた翌年あたりに、私の恩師の畑辻明先生から、こんど東大の工学部から渡辺公綱先生が名古屋大医学部に転任した永津俊治先生がおられた生命化学専攻の講座の後任教授として着任することをお聞きした。当時、畑研では、メッセンジャーRNAの5′-末端構造を発見された東大の三浦謹一郎先生と共同研究で、キャップ化されたRNAの化学合成の研究をしていた。渡辺先生については、三浦先生の講座の助教授をされていて、核酸化学シンポジウムでも毎年ご発表されていたので、よく存じあげていた。
その頃、渡辺先生は高解像度の円二色性分散計をお持ちで、この機器を使って宇宙研の清水幹夫先生が提唱したC4N説の裏付けの研究もされていて、畑研で合成したAUGオリゴマーとtRNAの相互作用について畑先生も協力していた。渡辺先生はドイツのGöttingenにあるマックスプランク研究所のF. Cramer 教授の研究室に留学されているが、それより以前に畑先生も同じ研究室に留学していたこともあり、畑先生から昔話として渡辺先生のことをよく聞かされていた。そのため、渡辺先生を近い存在の先生として私も着任を楽しみにしていた。
私の教員室の真ん前に先生の教授室があったので、着任予定の日より、確か少し遅れて何にもないガラーンとした4階の研究室にお見えになった。どうも、着任前に体調を崩され入院したようなことをおっしゃっていた。毎日好むと好まざるをえず目の前にある教授室から出入りする渡辺先生とは必然的にお会いしていたが、着任直後は直前に入院していたとは思えないくらいに東大から引っ越ししてきたお荷物を熱心にセッティングしていた。当時の大学院総合理工学研究科では1講座あたり15単位程度は自由に使える状況で、かなり余裕のある研究環境であり、研究室の立ち上がりから数年で立派なたたずまいになっていた。東大から移ってこられた学生さんも含めて、スタッフも助手の方2名も採択され助教授として西川一八先生が着任して、博士課程の学生が入ってくるとあっという間に一大勢力に発展されていった。この間、私の隣の1単位の部屋がいわゆるコンパルームとして機能していたのか、週末何かにかこつけて飲み会があって、隣の住民としてはこれは見逃せないときが多く、いつのまにか雑務を忘れそこにも入り浸りして渡辺研の若き学生さん達とスタッフと懇ろの仲に陥ってしまった。着任して間もなくは、渡辺先生もいろいろ品不足で、とくに自由に使えるコピー機が直ぐ近くになかったので、私の部屋に入るとポータブルの安いコピー機が置いてあるのに気がつき、偉く嬉しそうな顔でこれ使ってもいいかいとか言われ、こちらもどうぞどうぞと気軽にお返ししたこともあり、私の部屋の小さなコピー機は大層渡辺先生のお役に立ったようであった。
渡辺先生との忘れられない出来事は、研究室が落ち着いていろいろな方が訪問されたときのことである。渡辺先生のお部屋で畑先生をお呼びしてビールを飲んでいたことがあり、私もお付き合いしないかとの呼出しの電話が実験室にきた。その日は、ほとんど風邪ひかない私が数年に1度の風邪を拗らせていて計ってはいなかったが相当な熱があり、それでも渡辺先生は風邪なんかビールを飲めば直ちゃうよとか、さらに悪いことに畑先生が私の体調を気遣いすぎて、自分が海外出張したとき同じような風邪をひいたときに当時阪大の大塚栄子先生からもらった抗生物質を飲んだら直ぐに治ったとの経験談を話され、この抗生物質を飲めば大丈夫だよとド素人診断され、何故かまだ大事に持っていたその抗生物質のカプセルを研究室に取りにかえり私に下さり、ビールを飲んだあと飲むことを勧められた。10年間程度は大学を全く休むことなく、大抵な風邪なら無理して大学に行く私であったが、この素人判断の治療方針には負けてしまった。カプセルを飲んで、10分もたたないうちに、強烈な吐き気をもよおし、トイレに駆け込んで、胃を空にした。そのあとは気絶するような絶不調な顔をして再度教授室にいくと、一同心配よりも私の急変を面白がって笑いこがれていた。哀れな私のこの出来事は、その後渡辺先生の好みの昔話になり、何回も核酸化学シンポジウムのあとの飲み屋で人前で披露されたことか…。よっぽど、普段元気な私がしょんぼりしている姿が面白かったに違いない。
渡辺先生が東工大に着任されてからは、tRNAの構造と機能の研究の拠点にもなり、全国からこの分野の研究者が沢山訪問され、私も畑研時代、当時東大理学部生物の横山茂之先生と2-チオウリジン誘導体に関連したtRNAの修飾塩基の合成研究をしていたこともあり、国内外からの研究者の講演会を楽しんだ。また、渡辺先生が発起人のお一人としてRNA学会が立ち上がったときは、この学会で必ず研究発表をすることにして、この学会の普及には少しはお役に立ったと思う。有機化学を主体とした研究をおこなっている研究者がこのような分子生物学的色彩の強い学会に最初から参画していたのは私以外多分見当たらないと思う。他の有機化学の同業者たちは最初の数回位は参加していたが、そのうち自然消滅してしまった。私としては、領域横断的な研究はこれからも必須の分野でもあるので、できるだけ有機合成だけ楽しむのではなく、分子生物学的な研究成果も組み込み全体を見通せる総合力をもつ発想力豊かな有機化学者が沢山でてくることを期待している。しかし、最近では各分野の研究がより詳細なところまで追求されていることもあり、全体像を把握するには並大抵の努力では、中途半端になるリスクもある。圧倒的な情報があふれているこの時代では、なかなか難しい微妙な限界がきていると実感している。そういう意味で、渡辺先生との出会いとその後のお付き合いの日々は、とてもわかりやすくその時代時代の発見やトッピクスに感動し、それに応えられる十分な体力と気力があったことに思いを馳せる。
渡辺先生が立ち上げた東工大や東大の研究室からは、数多くのtRNA関係の研究者が育ち、我が国のこの分野を一層リードしている様子をこれまで他分野の研究者として客観的に眺めることができた。そんなこともあり、渡辺先生の平成14年度の日本化学会賞受賞のときは、はからずも私が業績説明者になったが、化学と生物の架け橋的な先駆的研究が審査員の先生方から大変高く評価されめでたく受賞された。これも忘れられない思い出である。渡辺先生の誰をも受け入れるフレキシビリティーと親しみやすいお人柄から、自由な独創的な感性をもった立派な後継者が全国各地で大変活躍している光景をみて、渡辺先生の人材育成の御功績に心から敬意を表したいと思う。渡辺先生本当にお疲れ様でした。天国でゆっくりお休みください。
写真 渡辺先生教授室にて