渡辺先生、いつかこういう日が来るのかも? と頭では理解しておりましたが、ずいぶん早くて、とても残念です。生前、先生は

「俺が死んだら、葬式は派手に楽しくやってくれ。」

 と弟子たちに語っておられました。お言葉どおり、皆で会場いっぱいにお花を飾りましたよ。お通夜もお葬式も、会葬者の方々が会場に入りきれず、長い行列ができました。盛大だったでしょ? だけど、楽しくはやれませんでした。久しぶりに会う顔ぶれでしたが、皆、さえない表情をしておりました。

 さて、何から書きましょうか?

 人との出会いが運命を変えることがありますね。先生と出会っていなければ、私はtRNAの研究なんか始めていなかったでしょうし、大学教員にもなっていなかったかもしれません。今となっては、tRNA研究抜きの自分は想像もつきませんから、先生の影響力は絶大です。

 学生時代、先生とは、妄想とも仮説ともつかない問答をよくやりました。

 ある日の事、

 渡辺先生 「堀。細胞に死がコードされていると思うか?」

 堀 「コードされていないと思います。もし、どこかの遺伝子に死がコードされているならば、必ず突然変異が出現するはずです。古来、死なない生物を聞いたことがありません。」

 当時、プログラム細胞死という言葉が世の中に出始めたばかりでしたが、実にとんちんかんな問答でした。ま、当時、修士一回生だった私を相手に、「なるほど…」とうなずかれながら、「だったら、こうじゃないか?」といろいろな仮説を組み立てておられた先生の姿が思い出深いです。

 またある日の事、コモロ島沖でシーラカンスが捕獲されたというニュースを聞いて、皆で、「当然、シーラカンスのミトコンドリア、いっとくでしょう!」と盛り上がった翌週、渡辺先生が「シーラカンスが手に入るぞ。」と興奮して研究室に入って来られたのには驚かされました。まさか、あの後、関係各方面に電話して、本当にシーラカンスの肝臓を分けてもらえる手筈を整えられるとは思いませんでした。先生の研究に対する情熱と行動力には頭が下がります。

 学生時代は、先生を困らせることばかりでしたが、40歳を過ぎるあたりから、時々、褒めていただけることもありました。特に、好熱菌のtRNA修飾ネットワークの一連の論文は、渡辺先生をして、「こんなことがあるんだ。」と言わしめたので、我ながらよくやったと思います。だけど、弟子の論文をフォローして、「今回のこの論文は、こういう点がすばらしい。」とコメントを送ってくれた先生がすごいです。学会ごとにうちの弟子たちのポスターにも来られ、皆、感激しておりました。先生は、とてつもない褒め上手です。

 先生とゆかりのある仕事としては、「生化学」誌に書いた「英語論文セミナー 21世紀の分子生物学 渡辺公綱、桂 勲 編」の書評が記憶に残ります。

http://www.ach.ehime-u.ac.jp/bchem/tyosyosousetsu7.html

 先生からのご注文は、「章ごとに執筆者がおられるので、12章すべてを紹介してください。」でした。されど、A4で2枚以内という投稿規程では紹介しきれない。何度も四苦八苦して書き直した原稿について、先生から

「これは誰も真似ができない。貴方しか書けない。貴方に頼んでよかった。」

 とメールをいただいた時は、とても嬉しかったです。本当に褒め上手です。また、各章の執筆者全員に気を遣われ、12章すべての紹介にこだわられた先生には、「さすがだな…」と思わざるをえませんでした。

 先生が生きている間に受理された最後の論文は、私との共著の論文になりました。

 7月、先生から、

「私の記念すべき200報目の原著論文が、こんな大作となったのは、とても嬉しいです。」とメールをいただいた時は、共著者一同、とても感激しました。私は、チャンスがあれば、先生と共著の論文ぐらいまた出るよと思っておりましたが、愚かでしたね。一期一会という言葉を思い知らされました。

 9月、出版したばかりの本のpdfファイルを送った時、

「残念ながら、今は読めません。もう少し回復したら読ませていただきます。」

 が私への最後のメールとなりました。いつも間髪入れず、私の作品にはコメントをくださっていた先生が、それをできないとはどういうことか。私はその意味を理解できておりませんでした。

 全く、最後まで愚かな弟子です。

 しかし、世界のタンパク質合成屋さんたちは仲がよいですね。

 Prof. Erdmann、Prof. Sprintzl、Prof. Nierhaus….そして、渡辺先生。

 みな一年以内に旅立たれました。

 向こうでは、みなさんと楽しくやられていますか?

 先生のご冥福をお祈りしております。


写真 2010年7月、日本RNA学会 懇親会会場にて