私が渡邊先生の門下に入ったのは1986年4月、修士からである。いまでも大差ないかもしれないが、当時の私はとんでもない学生であった。大学院入試で学部の4年の時に所属した物理化学系の研究室から、生物系の研究室に移ろうと思い立ち、同じ学科内に少し前に新設された三浦研(三浦謹一郎先生)に志望を出した。志望を出すにあたって、三浦先生に一言も断りもなく、合格して三浦研に配属が内定しても、一言も挨拶に行かなかった。とんでもなく非常識な学生であった。

 そういう学生だったので、当時三浦研は3グループから成っていたが、当時、助教授であった渡邉先生のグループにあっさり配属が決まった。キャパのある渡邊先生しか引受手がいなかったからである。

 渡邊先生は私の代わりによく怒られていた。三浦先生が学会長であった生化学会で、私はすごくできの悪い学会準備をしていた。予演会の後に、私は、当時もう東工大で一国一城の主人(あるじ)である渡邊先生と呼び出され、三浦先生から「あまり舐めてもらっちゃ、困るな」と叱られた。渡邊先生は青くなった。もっとも、渡邊先生も大らかだ。渡邊先生に見ていただいた博士論文を三浦先生に提出した。しばらくして渡邊先生は三浦先生から、「君、ちゃんと見たのかね?」と叱られたとこぼしていた。

 博士取得後、私は慶大医学部分子生物学教室(清水信義教授)に助手として入った。翌年の分子生物学会だったと思うが、渡邊先生は、清水先生から「とんでもない奴をよこしたな。引き取ってもらう!」という主旨のコンプレインを受けた。その後どういう会話があったか分からないが、せめて3年くらいは様子を見てやってくれというような会話になったのではないかと思う。そして3年目のちょうど手前でようやく芽が出て首がつながった。

 そういう弟子であったが渡邊先生は怒ることもなく、見放すこともなくずっと受け入れてくれていた。当時のことを考えると、とてもじゃないが私は学生たちを叱れない。

 いま研究室を主催する身となり、2年余前には渡邊先生を囲む会を開催できた。また、小さいながらも渡邊先生に机を準備することができた。渡邊先生は研究室のセミナーに参加してくれ、ちょっと分野の違う学生たちのプレゼンを聞いてくれた。せっかく我が研究室に身を寄せていただいたのに、私はずっとバタバタしていて、ほとんどお話ができなかったが、渡邊先生の最後の研究の場を提供することができて、この上なく有難いことであったと感じている。