令和5年9月27日に志村令郎先生が逝去された。神戸大学の井上邦夫さんからメールをいただき、志村先生の長女である東牧子さんからお電話をいただいたが、突然の訃報に接し、信じられないという思いが交錯し、しばらく言葉が出なかった。
志村先生に最後にお会いしたのはもう4年前に遡る。2019年11月に、志村先生の米寿のお祝いの会がご自宅で開かれ、私たち門下生も参加させていただいた。志村先生と旧知の中である由良隆先生や今井六雄先生をはじめ、坂野仁先生や岡田清孝先生、安田國雄先生、山森哲雄先生、近藤寿人先生とそうそうたるメンバーが参加され、志村先生や奥様の紗千子様も大変楽しそうにされていた。ちなみに私は京都大学の志村研での最後の博士になるのだが、この場でも一番の若輩者であった。昔話に花が咲き、現在の仕事についてお話しもさせていただく楽しい機会であった。志村先生も、ワインと料理を楽しまれながらお話をされていたように思う。この後にお訪ねする機会を持つことができなかったのは、ご多分に漏れずコロナ禍のせいであるが、大変ご無沙汰してしまっていたことが今となっては相当悔やまれる。
写真1:志村先生米寿のお祝いの会。後列左より 松尾、井上、渡我部、坂本、中島、村上、井口、山森、片岡、岡、澤、池村、木村、岡田。前列左より安田、由良、今井、志村先生、志村紗千子様、坂野。(志村先生ご夫妻以外は敬称略。志村紗千子様よりご提供いただいた)
私が志村先生と初めてお会いしたのは、3回生時の京都大学理学部での講義だった。その時に今後一生私の中で重要なキーワードとなる「スプライシング(splicing)」という言葉を知った。DNAは、免疫系での再編成(rearrangement)があるものの、静的な(static)ものという印象があったが、mRNAは、前駆体として転写されてからスプライシングを含む様々なプロセシング過程を経てようやく成熟する、それも特別なmRNAに限ったことではなく普通に起きている、という動的な(dynamic)なものであるということに非常に興味を惹かれた。その後、当時少しずつ見つかってきていた「選択的スプライシング(Alternative splicing)」という現象を聞き、よりRNAが関わる生命現象を解明したいと思うようになった。3回生当時、何人かの同級生と一緒に、Molecular Biology of the Cellの輪読会をやっていた。その時に、Maturaseという、Group IIイントロンの自己スプライシングに必要な、イントロン内にコードされるタンパク質についてどうしてもわからなかったため、どなたか先生に訊きに行こうということになった。RNAに関することなので、志村先生に、ということになったが、なんの連絡もせずにいきなりお訪ねしてしまった。若かったからだとは思うが、今となっては汗顔の至りである。突然の訪問にも関わらず、志村先生は私たち学生の質問に丁寧に答えてくださった。3回生が自主的にゼミをやっていることも褒めてくださったように記憶している。学生を指導する立場になってみると、自分の分野に興味を持って尋ねてきてくれることの嬉しさを実感するが、志村先生も当時感じてくださっていたのだろうか。
その後私は志村先生の研究室に大学院生として所属することになるのだが、すんなりといったわけではなかった。4回生の時に大学院入試を受けたが不合格となってしまったのである。これはひとえに私が不勉強な学生であったことに尽きる。その後、卒業研究で志村研に所属することになった時、志村先生に呼ばれ、「不合格になったのは残念だけれども、中学受験、大学受験と順調にきた君は、この辺りで挫折を知った方がいい」というお言葉をいただいた。当時は、ここも順調に行きたかったです、という思いを持ったが、学生を指導する今となっては先生のお言葉がよく理解できる。現在の東大での学生たちにも、やはり「失敗に慣れておらず、打たれ弱い」という感想を持ってしまう。自分自身に多少なりともそういう経験があることで、いろいろな悩みを持つ学生たちの気持ちにも寄り添えるように思える。
大学院生となってからは、志村先生から、大学院の先輩である大野睦人さんとともに核内キャップ構造結合タンパク質を精製して、cDNAをクローニングするプロジェクトをいただいた。この精製過程については、日本RNA学会の会報で書かせていただいている。大学院生になってからは、当時助手の坂本博さん、大学院生の澤斉さん、井上邦夫さん、渡我部昭哉さん、星島一幸さんといった方々とともに、活気にあふれた研究生活を送ることができた。文部科学省関連のお仕事でお忙しいこともあったが、志村先生は個々のプロジェクトについて細かいチェックや、指導をされることはなかった。むしろいいデータが出たと思えた時、こちらから志村先生のお部屋を訪問し、データを説明する方が多かった。もちろん3回生の時とは違って、内線で教授室にお電話をしてから伺うのであるが、電話の段階から緊張し、ドアをノックする時に緊張はピークに達した。その後も緊張してお話ししたことをよく覚えている。もちろん志村先生は一緒にデータを見て考えてくださり、時には喜ばれ、時には厳しい指摘をされることもあった。基本的に志村先生は学生に優しい方であったが、サイエンスに関しては妥協を許さず、厳しい方であった。現在の私の部屋はいつもドアを開けてあり、隣の居室に居る学生はノックもなしに飛び込んでくるが、データを持って来てくれるのは大変楽しい。志村先生に教わった通り、私もディスカッションでは、サイエンス的に妥協しないように心がけている。志村先生も、当時楽しんでいただけていたのなら嬉しく思う。
大学院を卒業後、私はペンシルバニア大学のGideon Dreyfuss教授の研究室にポスドクとして雇っていただいた。Gideonは志村先生を尊敬しており、志村研のサイエンスに敬意を払っていた。私が採ってもらえたのも、京都大学の志村研出身であることが大きかったように思える。もちろん私も、京都大学の志村研出身の博士というプライドを持って研究をしていた。時間はかかったが、Gideonのラボで良い論文を出せて志村先生に報告した時、大変喜んでくださった。少しは先生のご期待に添えたかなと考えている。
写真2:RNA2003 Kyotoでの志村先生とGideon。Gideonより提供していただいた。私の偉大なmentorのお二人である。
日本に帰国後も、折に触れて職場をお訪ねしたり、電話やメールでも連絡させていただいていた。私がなかなか仕事が進まず、また、安定したポジションに就くことができない時にも、気にかけてくださり、叱咤激励のお言葉をいただいていた。現在の東京大学大学院農学生命科学研究科 応用動物科学専攻 細胞生化学研究室にテニュアの職が決まってご報告した時、すごく喜んでくださり、大いなる期待の言葉をいただいた。いつも心配をかける、最後まで不肖の弟子であったと恥じ入るばかりである。
冒頭に書いた米寿のお祝いの会以来、お会いする機会はなかったが、大学院生やポスドクと自分の研究体制を整えた時や、自分の論文が出た時には、その内容のご報告とPDFを送らせていただいていた。志村紗千子様や東牧子様から、志村先生が喜んで見て下さっていたことをお聞きし、ほんの少しはご恩返しができつつあったのかと思い嬉しかった。京大から東大に移った時、「良い研究をするということを目ざし、目線を高く保って、研究をして下さい。」というお言葉をいただいている。志村先生がそうされてきたように、流行り廃りを気にせず、やるべきサイエンスを世界に先駆けて行う、ということを肝に命じて今後もよい仕事ができるように精進していきたい。また、志村先生の孫弟子にあたる大学院生たちにも、RNAの面白さ、サイエンスをやることの大変さと楽しさを伝えていこうと思う。
志村先生からは、サイエンスとは何か、サイエンスを行うとはどういうことかということを教えていただき、私の礎を築くことができた。また、RNAという大変魅力的な分子に出会う機会を与えていただいた。人生の師を失ったことは本当に悲しく、残念でならない。しかし、「片岡くんなぁ」という先生の独特の口調で、今も呼びかけ、見守っていただいているように感じる時がある。志村研での教えとスピリッツを常に抱き、よいサイエンスができるよう精進していくことが志村先生への恩返しであると思う。最後に志村先生にあらためて感謝をお伝えするとともに、ご冥福をお祈りし、筆を置くことにしたい。