イギリスにいた頃に今でも忘れられない景色に出会ったことがある。ロンドンから西に電車で一二時間くらいのところにあるBathという街に週末に一人で出かけた時のことだ。Bathはローマ時代の公共浴場が重要遺産になっていることで知られる。しかし浴場は混んでいて長時間並んだ上に、入っても特段面白くなかった。Bathは小さい街で歩いても数時間あれば全部見て回れる。何となく歩いて丘の上にあるイギリス王室の別荘のような建物に辿り着き、そこからの勾配を利用したVictoria Parkを散策した。ブラスバンドが日曜日の演奏会をやっているのに少し足を止めた後、茂みを通り抜けると広大な芝生からBathの街が見下ろせる場所に出た。ただのだだっ広い芝生だ。両脇に小道があって気持ちよく坂を下ることができる。真ん中にベンチが置いてあってそこに座って休憩することもできる。私はそこに立ち尽くして恐らく一時間くらいその景色を眺めていたと思う。

友人などにVictoria Parkで見た景色のことを話すと、たいてい世界にはもっと素敵な景色がある、と言われる。確かにイギリス国内だけでもスコットランドやウェールズの自然、ロンドンにも素敵な公園は多くあるし、世界には景観を愛でるためだけに行く価値のある場所は多く存在する。すべての人にとって懐かしいと思えるものは個人的であるように、当時の私が置かれていた環境、研究のことも含めて、BathのVictoria Parkは絶妙に心に響いたのだと回想する。

私は東京大学大学院、新領域創成科学研究科、上田卓也先生の指導のもと、大学院時代を過ごした。実験は好きだったが本当に未熟で、上田先生にも、また近くで研究を指導して下さった竹内野乃さんにも沢山心配をかけた。たちが悪いのは、そのことが分かったのは博士も終盤に差し掛かってからのことだったことだ。本審査の半年前に行われる予備審査で医科研の菅野純夫先生にこっぴどく怒られ、これは博士に値しないとまで言われたのだ。私は哺乳類のある転写因子の核内輸送のメカニズムを研究していたのだが、目の前の問題を解決する論理立て、実験技術はあっても、そもそもの問題設定、問題を解決する上でのアプローチが全然なっていなかったのである。そこからの半年は本当にNightmareで、それまでにやってきた実験をもとに博士全体の構想を練り直すという本末転倒な作業に毎日追われ、ほうほうの体で審査にのぞみ、辛くもパスしたというのを覚えている。

いい経験をしたなと研究室の先輩である清水義宏さん(現理研)や車兪澈さん(現東京工業大学)に励ましてもらったはいいが、何しろまともな論文が出ていなかったので、ポスドク先を探すのも簡単ではなかった。理研の今本尚子先生にアプローチして理研のポスドクフェローシップにアプライしたが、あえなく不合格で(自慢ではないが、その後数多く出したポスドクフェローシップは全て不合格だった。)、途方に暮れていた時にRNAの細胞内輸送の話をどこかのレビューで読んだのだ。蛋白質と同じでRNAも細胞内の特定の場所に輸送される。RNA輸送はショウジョウバエの体軸形成や神経細胞の活性化に重要な役割を果たしていることは知られるが、どの系を取ってみても、メカニズムが殆ど分かっていないという。蛋白質の細胞内輸送経路はシグナル、アダプター、メカニズムと構造レベルまで分かっていたのとは対照的だった。興味を持って一ヶ月ほど論文を読み漁り、世界中でRNA輸送をやっている研究者にメールを書き続けた。こういうランダムなポスドクアプリカントは殆どの研究者は無視するが、ロンドンのCancer Research UK、David Ish-Horowiczが唯一インタビューに来ないかと返事をくれたのだ。Davidはポスドク時代にWalter Gehringの研究室でEric WieschausやChristiane Nüsslein-Volhardらと共にショウジョウバエの発生学が最も脚光を浴びていた時代を過ごした人だ。著名な研究者であるのにも拘わらず畳1畳分くらいのオフィスしか持たず、大変とっつきにくいがどこか愛嬌のある人だ。Cancer Research UKに来るポスドクの殆どは華々しいPhD時代を送ってきた人たちで、私はインタビューでも全く手応えがなかったし、入ってからも、その必要がないのにどこか周りに引け目を感じていた。Davidは周りの研究者を説得して未熟だった私を押し込んでくれた(Cancer Research UK(現Francis Crick Institute)では、ボスだけではなくコミティーの了承があって初めてポスドクとして受け入れられる。)と後から伝え聞いた。それからもお世話になりっぱなしで、Davidに出会えたのは本当にラッキーだったと思っている。なぜどこの馬の骨とも分からない私を呼んでくれたのかと後年聞いたことがあるが、明確な返事はまだもらっていない。

ロンドンでの慣れない生活によるとんでも話、英語に苦労した話、カルチャーショックなどは人並みにあったと思うが全て省略する。一言、ロンドンでのハエのコミュニティー、周りにいた研究者たちが皆よくしてくれたのが大きな支えになった。PIのNic Tapon、Barry Thompson、ポスドク仲間のKrzysyztof Wicher、Eunice Chen、Mark Wainwrightらとハエ部屋や金曜日のパブなどでいつも熱のある?ディスカッションをしたのを覚えている。

ロンドンでの研究は楽しかったがなかなか実が出なかった。ハエの卵母細胞内でのgurken mRNAの特異的な局在に関わる因子を釣るEMSスクリーニングをやっていたのだが、問題設定は面白いが、全てのスクリーニングがそうであるようにリスクを伴うし、そもそも時間がかかった。今思えば先を見通す力がなかったのだと思う。探していたのはgurken mRNAに特異的に結合して細胞内局在に導くRNA結合蛋白質であったが、ショウジョウバエのゲノムのほぼ4割を網羅するスクリーニングの結果、そのような因子は結局取れてこなかった。約4年かかってそれが分かり、スクリーニングの論文が出るまで更に1年半を費やしたが、スクリーニングの副産物として思わぬ変異体もたくさん取れたのだ。その中にトランスポゾンの発現抑制に関わるpiRNA pathwayの因子がいくつか含まれていた。なかでもarmitageと呼ばれる遺伝子がgermlineだけでなく卵巣内の体細胞の発生にも必要であることを見出して(後にtrivialな発見だと分かる)、piRNA pathwayにのめり込んでいった。ところがDavidの研究室では研究のノウハウがなく、しかも私も研究所を出なければ行けない時期が近づいていたので(Cancer Research UKには基本5年までしか滞在できなかった。)共同研究先を探すことにしたのだ。たまたまBarry Thompsonの知り合いでウィーンのIMBAという研究所にいるJulius Brenneckeの名前が挙がって、Davidと話して共同研究をお願いすることにした。私たちの変異体の解析は、JuliusなどpiRNA pathwayを熟知する研究者たちからしたらナイーブなものでしかなかったのにも拘わらず、Juliusは丁寧に共同研究を進めてくれ、様々な実験のサジェッションをしてくれた。

共同研究の一環でIMBAにセミナーをしに訪れたのが2013年の3月のことだ。IMBAのことを良く知らず、準備も中途半端でまともな セミナーにはならなかったが、ただその後のJuliusとのディスカッションだけは盛り上がって、ウィーンを去る直前に、Juliusのラボで仕事を終わらせないかと言ってもらったのだ。IMBAにセミナーに行く前から、ロンドンの後は別の共同研究先のOxfordの研究室に引き続きポスドクで行くことが内定していたから、返事に窮し、数週間待ってもらって悩んだ挙句、Brenneckeラボにお世話になることに決めたのだ。最近になって他のラボメンバーから聞いた話によると、Juliusにとってみても口が滑ったわけではないが突発的なサジェッションだったらしく、ラボのメンバーも良く把握していない状況で私だけいきなりウィーンに現れた、という印象だったらしい。恐らく、終りかけのグラントでポスドクを一人雇うお金があって、そんなに長くは滞在しないだろう、という見積もりで引き取ってもらったというのが実情であろう。

ロンドンで取れた変異体の一つがpiwi遺伝子の発現を抑えることを見出していたことがきっかけで、同様な表現型を見出していたPhD studentのDominik Handlerと一緒に研究を進めることになり、望外にも半年ほどでBrenneckeラボでの最初の論文(Exon Junction Complex (EJC)によるpiwi遺伝子のスプライシングメカニズムに関する研究)を出すことができた。じゃあこれからどうする、という話になり、ロンドンでポスドクを始めた頃からいずれは自分の研究室を持ちたいという意識が強くあったため、Juliusにお願いしてもう少し長く居させてもらうことにした。というのも、EJCの論文だけでは業績が足りず、日本で職を探すにしても とてもコンペティティブなCVではなかったためだ。その時点でPhDを取ってから7年近くが経過していたので、ヨーロッパの一般的な研究機関のジュニアのPI達と比較して歳を取り過ぎていたし、PIを目指すのはかなり無理のある選択だったように思う。家族のこともあって研究を続けていて大丈夫かと選択を迫られる時期がなんとなく続いてしまっていた。

たまたま隣のAmeresラボでマスターのプロジェクトをやることになった学生(Jakob Schnabl)がBrenneckeラボと共同研究をする形で、実際的な研究のノウハウをある程度身につけていた私がスーパーバイザーということになり、piRNAの3’末端形成のメカニズムを調べ始めたのが2014年の10月のことだ。NibblerというexonucleaseがpiRNAの3’末端を削る過程を主にショウジョウバエのジェネティクスとpiRNAのシーケンスの解析から詳細に明らかにし、望外にもNatureに論文を出すことができた。JakobとのCo-first (First)という形だが一番キーになる実験結果はJakobが出しているし、ベンチでの実験、コンピュータでの解析も主導したというよりは一緒にやったという実感の方が強く、Co-first(First)にしてもらったのはJuliusとJakobの温情そのものだ。しかもNatureに投稿することは論文がほぼまとまった時点でも考えていなくて、Juliusが2016年1月のKeystone meetingでNibblerに関する基調講演をした際にNatureのエディターも来ていて、そこでいいアピールになったのが実際には大きかったようだ。

Job Marketに乗ったつもりになり、アプリケーションを出し始めたのはいいが、インタビューに呼ばれることすらない状態がしばらく続いた。CV、プロポーサルともにインパクトが足りなかったのは否めない。そんな状況下でオーストラリアのキャンベラにあるJohn Curtin School of Medical ResearchのJunior Group leaderのポジションでインタビューに呼ばれ、オファーを受けるに至った。RNA・クロマチン制御関連の研究者を募集していたが、研究所のショウジョウバエ研究を補強したいという思惑があったらしく、私の経歴がマッチしたようだ。言い換えればそれぐらいの幸運がない限りインタビューに呼ばれることすら厳しかったようだ。

2018年の1月からキャンベラで研究室をスタートすることになったが(ショウジョウバエの卵発生における遺伝子発現制御、およびRNAスプライシングの素過程を研究するつもりです。)、これまでの約9年間に渡る海外留学生活を振り返ると、”piece of luck”どころか、”sequence of luck”だったように思う。まず、博士の審査で菅野先生に沢山の厳しいご指摘をもらったことで気付かされたことが多分にあった。その二年前に上田研究室の先輩である應蓓文さん(現筑波大学)がやはり菅野先生に論文審査をお願いしており、その時から菅野先生にお願いしようと考えていた。博士の審査が万が一スムーズに行ってしまっていたら、その後の留学などはありえなかったと思う。そして、Davidに呼んでもらったのが当時の自分のCVを考えるとほぼありえない幸運で、その後のBrenneckeラボでの研究につながったと思う。また、ポスドクの大事な時期にJuliusと研究ができたのは大変貴重だった。サイエンスのやり方、論文の書き方、学生のスーパービジョンなど教わったことは数知れない。

一方で、すべての研究者にとってある程度の年月がもたらしてくれるものは個人的であって、何も海外で経験することに特別なことはないと思う。私の場合、最も痛切に感じるのは、妻のサポート無くしては日々の研究を楽しむことはもちろん、先行き不透明な研究生活など有り得ないということだ。最後に、この文章を書く機会を与えてくださった京都大学の北畠先生に感謝したいと思う。

2017年9月3日、ウィーンにて

林 立平

 

 


写真1 Bath、Victoria Parkからの景色、2011年春


写真2 Ish-Horowicz Lab、クリスマスディナーにて、ロンドン2011年
 右から二人目が私、奥、左から三人目がDavid


写真3 Brennecke Lab、クリスマスマーケットにて、氷点下10度、ウィーン2016年
 後列右から二人目が私、後列右から四人目がJulius