まだ去年起こったことなのに、既に忘れ去られようとしているのが「STAP、オボカタ、理研」事件です。昨年4月の会見で、オボカタさんは世間を味方につけました。彼女のメーッセージは「私は不勉強で未熟で周りの人にいろいろ迷惑をかけるけれど、けなげにみなさんの病気が一日でも早くなおるようにがんばっています。私は半人前でうまく説明できませんが、ちゃんと重要な細胞を作れるんです。200回以上作製に成功しました。その細胞を使ってみなさまのお役にたちたいんです。私にやらせてください! 」っていう印象でした。反知性主義的おじさんおばさんや斉藤環的ヤンキーの琴線に響く「つぼ」をおさえていました。あたかも、論理的に説明できない人の方が世間では「かわいいヤツ」ということになることを彼女は知っているかのようでした。あの会見を見ていた人の中には「そんな正論はどうでもいい、とにかくオボカタを信じてやれ、助けてやれ」と思った人が結構いたのでは。

一国の首相が「まあいいじゃん、そういうことは」(2015年8月21日参議院安保法制特別委員会)なんていうヤジをとばしたり、「一億総活躍社会」なんていう造語を持ち出す空虚な「軽さ」をあえて演じざるを得ない国になってしまっている、しかもそれをだれも止める人が周りにいないのもこの理由かも。「理論派」と言われる政治家が絶滅したのも同じ理由かもしれません。そう言えば、昨年の夏、まだまだオボカタ擁護派が沢山おり、「最も重要なことは、このSTAP細胞の財産的価値であり、国際知財戦争における、STAP細胞に関わる日本の戦力の発揮の仕方であろう。STAP細胞の検証実験を国としてもしっかりサポートしたうえで、その成果を日本の知財の輝ける成果(武器)として、世界に挑戦してゆくことこそが望まれている」なんて勇ましいことを言っている政治家(自民党丸山和也参院議員)もいました。しかも、最近ではこのような軽い自民党のオシャベリに反対するようなことを喋ると「反日」などとネット上で誹られるようです、もちろん、匿名で。やれやれ。

「こわいのはわれわれが愛国者になることではなくて、愛国者のふりをしないと孤立するような社会がやってくることだ」(『超・反知性主義入門』小田嶋隆)。この時代の反知性主義とは、たとえば、「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」(『知性とは何か』佐藤優)とか、「知性よりも感情を、所有よりも関係を、理論よりも現場を、分析よりも行動を重んずる態度」(『ヤンキー化する日本』斉藤環)と定義できる。これはつまり、論理的かつ定量的に考え、実証に基づいて自分なりに結論を導くといった自然科学的な考え方の欠如です。またはそのような考え方を涵養する教育の欠如です。

写真の石はこの夏訪れた釜石で拾ったものです。その直ぐ側のビルの2階と3階の間に横線が引いてあり、それは海嘯がそこまで来たことを示すものでした。何らかの理由で誰かが残した左足の足跡ではと思ったりしています。またはこれ以外の足跡は全て海嘯にさらわれた、とか。

(2015年11月)


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