幾度、杯を重ねたでしょうか。どれだけ、議論したでしょうか。

 日本にとってかけがえのない科学者であり、リーダーであり、私にとって学問の先輩であり、不遜ながら敢えて言わせていただけるのであれば数少ない年上の友人、野本先生そして野本明男の何を書けば良いのでしょうか。
 野本明男は剣士でした。これで終わり、いかがでしょうか。
 神髄を見抜く人でした。本質だけを語る人でした。

 野本先生の研究を一言で表せば、「ポリオウイルスの複製と病原性発現の分子メカニズム」の解明ということになるでしょう。ポリオウイルスのゲノム末端に結合しているVPgのウイルスRNAゲノム複製反応における機能を予言した1977年の論文、ポリオウイルスレセプターの同定を基盤にポリオウイルス感染のモデル動物となったTgマウスの作製に成功した1990年代初期の幾つかの論文、その後最近まで続けられたIRESやポリオウイルス感染経路に関する研究は、いずれもその後のポリオウイルス研究の動向を変えるようなものでした。しかし、私にとっては1989年にJournal of Virologyに発表された論文(Determinants in the 5' noncoding region of poliovirus Sabin 1 RNA that influence the attenuation phenotype)が印象的でした。確か、東京都臨床医学総合研究所微生物研究部門部長の時だと思いますが、日本ウイルス学会学術集会のシンポジウムで発表されたこの論文の内容は、当時の日本のウイルス学研究に分子遺伝学/分子生物学の美しさを持ち込んだものであり、野本先生の研究の素晴らしさが端的に現れたものだったと思っています。この時に、野本先生の研究手法も確立されたように感じています。

 野本先生は、日本の分子ウイルス学を牽引してきた科学者です。常に、「複製と病原性発現」の解明に向けて、個人としてはもとより、彼の先輩や同輩や後輩達をも巻き込んで、分子ウイルス学の潮流の先頭を歩きました。分子ウイルス学を発展させるために野本先生が気を配られたのがグループによる研究であり、それを推進するための研究費、特に科研費の獲得でした。大きなグループ研究を成立させるために不断の準備をされてきました。1984~86年度総合研究(A)「自己増殖性RNAの構造と機能」、1988年度総合研究(B)「ウイルス研究推進のための調査研究」、1989年度総合研究(B)「ウイルス病原性の分子的基盤研究推進のための調査研究」、1991年度総合研究(B)「RNAレプリコン」などのグループ研究では、ウイルス学全体の動向を分析し、未来を議論する努力の中心に野本先生がいらっしゃいました。その努力が実を結んで成立したのが、野本先生が領域代表を務められた1992~95年度重点領域研究「RNAレプリコン」でした。ウイルス学領域における最初の大型グループ研究でした。さらに、この領域の展開中に1993年度総合研究(B)「ウイルス病原性の分子的基盤」にも参画され、この調査研究が永井美之先生を領域代表とする1995~98年度重点領域研究「エイズの病態と制御に関する基礎研究」の成立に繋がりました。さらに、こうした努力は再び野本先生が領域代表を務められた2006~11年度特定領域研究「感染現象のマトリックス」を生み出しました。

 野本先生は後輩の育成にも尽力されました。若手研究者に対しては十分な目配りとともに厳しい観察眼で、能力が最大限引き出されるような配慮をされてきました。たとえば、JSTさきがけ研究の「RNAと生体機能」領域の代表を務められていた時の野本先生の若手に対する厳しさと包容力に代表されると思います。そのことは、この追悼文集でほかの方が詳しく述べられると思います。国際舞台でも野本先生は大きな活躍をされました。WHOの委員を務められたことは大変誇るべきことです。2011年札幌開催の国際ウイルス学会議(International Congress of Virology)では、準備委員会での理不尽な議論にも負けず、天皇陛下の御幸の手筈まで整えられ、ホストとして十分な準備もされました。

 あと少し野本明男について書かせていただきます。野本先生/野本明男とはじめてお会いしたのは、小職が国立遺伝学研究所に赴任して間もない頃でした。研究所が開催した研究集会に中堅研究者として参加されていた野本先生/野本明男と交わした最初の会話は、研究集会会場に隣接した喫煙所でした。「君か!君が帰国したばかりの。それでは今夜の二次会の場所をお願いする」。喫煙所には、永井美之先生も水本清久先生もいらっしゃいました。そうして、その後の30年に亘る付き合いが始まりました。そして、どれだけ杯を交わしたでしょうか。科学や研究についてはもちろん、随分といろいろなことを話しました。野本明男を吊るしあげたこともあります(ちなみに、野本明男と一緒に永井先生を吊るしあげたこともあります)。一緒に飲んで話すために、名古屋から東京まで、わざわざ「こだま」に乗ったこともあります。何かの会議の終わったあとの東京駅周辺での個人的な慰労会では、数カ所のハシゴを経て、最後に最初に入った居酒屋に入ってしまい、会計の時に店員さんにその旨を言われて、大笑いでした。

 野本明男は聞くことが上手で、明快な観点から適切な意見を言葉少なに述べる人でした。現在の職に就任が決まった時にお祝いの会を開いていただきました。その時の一言が忘れられません。「研究が好きで、研究ができる奴がやるのなら、大学も変わるだろう」。それは科学者として一筋に道を拓き、その後研究のマネージメントに就かれてもいつも現場の研究が第一であったご自分に対する矜持でもあったのだと思っています。胸に深く刻んでいます。

 しっかりと背筋を伸ばし胸を張って、学会場を、シンポジウムの会場をゆったりと歩かれていた科学者野本明男、また背広とトレンチコートを羽織って颯爽と飲み屋に向かう野本明男は、私にとってはまさに昭和という時代のノスタルジーをすべて肩にのせた剣士の風格を持った男でした。

 さらば!

 

永田恭介(筑波大学)

平成26年11月