前の話でカリコさんとの縁 (えにし) を紹介したが、その後、彼女は慶応医学賞を受賞することで、記念講演をすることになり、老生は講演の司会をされる中原先生や選考委員長の塩見先生からパネル座談会へ友人として入れてもらえることになった。本来なら、来日される時に、対面したいものと思っていたのだが、思わぬことから、講演前のZoomの演者控室へ入って彼女と話すことになった。彼女はドイツのBionTech社のオフィスから (だろう)、私は鎌倉の自宅の居間からだ。すでにメールで交信しているので、なんの遠慮もいらないので、もっぱら講演前のウォームアップの軽い会話に努めた。
講演は素晴らしかった。子供の頃のこと、家族のこと、国のベスト100人生物学小学生に選ばれたことなど、娘がオリンピック (ボート) で金メダルを取ったことなど、これまでに聴講した他の講演に比べると珍しい構成だったが、盛りだくさんでとても良かった。ジョークもあって、「Because I was a daughter of butcher, I did very well with the study of lipid」―――“もともと、私は肉屋の娘だから脂肪の実験など、ナーンてことはなかった”―――などが記憶に残ったので「あれはEntertainingで面白かった」と感想メールを送った。彼女のプレゼン・スライドの中には、私のエッセイ「カリコさんからのメール」で紹介した内容のものがたくさん入っていて、エッセイを読んでくださった方には話が合致して良かったのではないだろうか。カリコさんの師匠のTomasz博士は、老生のかっての共同研究者なので、その折のキャップの生合成経路に関する共著論文や、二人の若い頃の写真を講演中に見せてくれて、日本での講演にふさわしく気配りしたように取れるプレゼンで、私自身は、正直、心地よかった。その後、塩見先生へ寄せられたメールからも多くの方に好評であったことがわかり、老生も嬉しかった。
それから2週間ほどして、カナダMcGill大の友人ナフム (ソネンバーグ教授) からメールが来た。「コロンビア大のLouisa Gross Horwitz賞を受賞したカリコ博士の講演を聞いていたら、君の若い時の写真を出してたぞー――添付して送るよ、ほら」とある。
図1 (上) 筆者の若い折の写真など (下) ハンガリーでの若い折のThomasz 博士とカリコ博士
―――ということで、2枚のスライド内容が添付して送られてきたが、それは彼女の日本への講演で見たものと同じであった。図1に紹介する。なんてことはない、コロンビア大でもこのスライドを使っていたことが判り驚いた。
さて、この2枚のスライドには、修飾ヌクレオチドを使って作ったmRNAの成功にたどり着くまでの、彼女の「mRNAの医薬品化」にかけた夢と、一途な人生の軌跡が大らかにまとめられていて快かった。夢を果たすために米国へ移ってから、幾多の挫折を経て、大学からの追放勧告を受けたり、意地悪をされたりしながらも、ひたむきにmRNAの医薬品化実現を目指して歩いてきた様子がよくわかった。そして、カリコ博士が、そんな苦労も明るく話せる真の苦労人だとも感じられた。BioNTech社の副社長としても、きっとうまくやってゆけるに違いない。
カリコさんとのQ&Aからー――2'-O-メチル基の役割
カリコさんの講演には、私にとって、キャップに関するサイエンティフィックな新情報もあった。それは、キャップ構造中の2'-O-メチル基に関することであり、老生は7mGの重要性はつとに喧伝するものの、これまで、このメチル基については、その生物学的役割を解決してこなかった。高等生物の細胞やウイルスのキャップは、m7GpppNm-というように必ず2個のメチル基がついている。一方、酵母のような単細胞生物ではm7GpppN-のようにキャップ中のメチル基の数はm7Gにある一個だけである。高等生物のmRNAでは、そのほか、m7GpppNmNmNmp-というように2'-O-メチル基を持つヌクレオチドNmが次々に続くという形態のmRNAがあり、そのメチル基の数がどんな役割を担っているのかは今もって謎である。しかし、講演後のカリコさんとのQ&Aから最初の2'-O-メチル基については、mRNAが外から細胞内へ入る際に、これがあると異物として認識されなくて、ワクチンとしてよくタンパクをつくるが、m7GpppN-のように、2'-O-メチル基がないmRNAでは「異物が侵入!」というように発覚され細胞内外へ警告が出て、細胞の蛋白合成が進まなくなってしまうー――ということが実際に起こるということである。その理由としては、難しくなるので、ここでは述べないが、2'-O-メチル基がないキャップと結合してタンパク合成を止めるタンパクやメカがあるようである157。つまり、結論から言うと、2'-O-メチル基は、mRNAワクチンが、スパイク蛋白を多量に作るためには重要なのである。それでは、mRNAのキャップとして、Nmの数が増えたm7GpppNmNmを持たせるとタンパク合成の効率がm7GpppNm-より良くなるか、というとそうでもないようであり、Nmがいくつも続くmRNAの存在と意義は、いまもって未解決の謎であり、闇の中にある。この闇に光を照らすRNA研究が求められる。
カリコさん、日本国際賞への来日
さて、そのカリコさんだが、4月13日の日本国際賞の授賞のため、今度はワイスマン博士と一緒に来日するとのことである。これに合わせて、これまで彼女を助けて研究を進めてきた日本人共同研究者の村松博士もー――現在はペンシルバニア大からドイツへ移りBioNTechの研究室にいられるそうであるがー――この機会に久しぶりに、一時帰国されるかもしれないとも聞いた。であれば、授賞式の後にでもお会いして、2005年ごろの苦労や、発見のエキサイトメントや、今後のmRNA医薬品発展へ展望などについて、聞いてみたいと思っている。
こんなメールのやり取りの中、ロシアのウクライナ侵攻のニュースが続いているので、話題はサイエンスを離れてそちらへも飛んだ。実際、カリコさんやTomasz博士の故郷のハンガリーは、ウクライナと隣り合っていて、歴史的にもロシアの無法な侵攻を受けたことがある国柄である。ロシア戦車の襲来とか、粗暴なロシア兵の挙動という点では、私も幼い頃の記憶があり、そんなことをカリコさんとメール交信で共有することになった。彼女はプーチンがBig bomb (核爆弾のことか) を使用することを恐れているようであったが、確かに、戦場になっているキーフや原子力発電所などは、彼女の祖国ハンガリー共和国に近いのである。彼女が来日する4月13日までには終わっていてほしいものである。
ロシア戦車隊と乱暴なロシア兵―――幼い記憶の起点
カリコさんとロシア兵のウクライナでの暴挙について話しているうちに、自身の、1945年8月15日の夜の記憶にたどり着くことになった。このエッセイシリーズでは、昔のことを思い出して書いているのだが、その8月15日の夜の記憶は、筆者が5歳足らずの小児だった時のものであり、怖さに震え、母にすがりながら見た恐ろしいロシア戦車の襲撃の生々しい光景だった。そして、それが記憶の一番底にあったものと思われる―――。いうなれば、この「走馬灯の逆回しの行きどまり」がそこにあるようである。夕刻に、轟音を立ててロシアの戦車隊が現北朝鮮の海沿いの町 (当時は日本領の) 城津市にあった古市薬店の前の大どおりを通り過ぎた光景を覚えている。そこでは、母の日記の記述と私の記憶とは一致していて、戦車の上にはロシア兵達が鈴なりにまたがっていた。女性の兵士も見えた。戦車の後には、日本の敗戦を喜ぶ朝鮮人が歓声を挙げながら戦車を追っかける砂ぼこり一杯の光景だった。空には赤い月があったようである。
その後、城津は地図上から消された町になった。現北朝鮮のキムチャク市がそれにあたる。北朝鮮建国の際に功積があった将軍の名前を取ってつけられたものという。戦後、この町から引き上げてきた人達は「城津会」を作り、時々は集まって思い出話をしてきたが此の夜の記憶は、誰にも共有して強く刻まれたものである。この日から、ロシア兵による略奪が始まり、家に押しいってきてダヴァイ (はやくしろ・よこせ、の意らしい) というロシア語が今もって記憶にある。こうして、ロシア兵達は時計や宝石・貴金属―――時には娘たちも、略奪していったが、この記憶の光景が、現在のウクライナで起こっている無法行為の現場と一向に変わらないことには驚くばかりである。
おわりに
80歳を超えて、なお、活躍している医科学の功労者の方々を顕彰する「山上の光賞」という賞があり、老生はこのうち研究者部門で選ばれて4月13日に受賞することになった。
これまで、そのような奇特な賞があることを知らなかったが、老医師一人、老研究者一人、老看護師一人の授賞ということであろうか、推薦して下さった先生方には御礼を申し上げたい。ゴルフでいう、エージ・シューティングをするようで、とても嬉しい。読者の皆さんにも、長生きしてもらい、是非この賞を射止めてもらいたい。カリコさんからは、同日に行われる、彼女の日本国際賞の授賞式に招待されたが、お断りした。私には、家内を伴って、「山上の光賞」で同業の老受賞者達と親しく苦労話を交わすほうが向いている。
昨今のプーチン・ロシア政府の横暴と卑怯なウソを見ていると、つい幼い日のことを思い出してしまった。日本が第2次大戦で敗戦を認め、米英中に対して降伏し、武器を置いてから、ロシアはそれまでの日ソ平和協定を破棄して、新たに戦争布告して攻め込んできたのだ。その結果、約束した南樺太の割譲以上に、日本管理下の北方領土へ攻め込んできて、現在も、居ついてしまっているーーーもし、米国の反対がなかったらー――北海道の半分もロシア領になっているところだった!今回のウクライナの問題を見ていると、77年前も、現在も、ロシア政府は領土に汚い。城津の町にロシアの戦車が入って来た日のことを書いたが、その翌日から筆者と母、祖父母4人の、苦労の、日本への18か月間にわたる引き揚げ逃避行が始まったのだが、それについては亡母と共著した「北朝鮮からの脱出」に記録したので、機会があれば、ご覧になって頂きたい。
<了>
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