去年参加したRNA Society meeting (RNA 2019 meeting, Krakow, Poland) で面白い発表を見た。タコ (octopus) では例外的かつ異常とも思えるほどA-to-I RNA editingの頻度が高い (図1) [1]。「すごい!でもなんのため?」と衝撃を受けた。それ以来、タコに強い関心を持っている。そのうち、タコの研究をやりたい。編集者ADARをゲノム編集したタコを作製し、彼らの視線、表情 (ボディパターン、体色の変化) やヒトへの接し方を見てみたい。mRNAのMS解析をすれば、m6Aやm5C修飾もヤタラ出てくるかもしれない。それで、タコ関連の本を何冊か買った。しかし、読む時間がなかった。積読。いつか読もうと思い、果たせなかった。ところが、突然、COVID-19がやってきた。外出自粛 (日本人は、Jishukurin Aという脳に特異的に発現している短鎖ペプチドをコードする遺伝子のA-to-G変異のアリル頻度が異常に高く、それが日本人の権威に対する従順さにつながっている、との報告はまだない)、在宅勤務、オンライン会議、オンライン講義。突然、本を読む時間ができた。どうやらこのような状況を英語では“stolen time”と言うらしい。それで、タコに関する本や文献を幾つか読んでみた。


図1. Hyper-editing in octopus 

『タコの心身問題』という本には ‘頭足類から考える意識の起源’ というサブタイトルが付いている[2]。以下、書抜、2つ。

哲学の基本は、一見ばらばらな多数の要素を一つにまとめ上げることだ。一つにまとめた時にどのような全体像が見えてくるかが重要である。よい哲学は日和見主義だ。つまり、どのような情報であれ、どのような道具であれ、役に立ちそうであればすべて利用するということだ。

これって、つまり、哲学と生物進化論は同じロジックなのだ。生物進化に関する論文にはよくtinkerer、exaptation、bricolageという用語が出てくる。

この寿命の短さを知ってから、頭足類の大きな脳は私にとってさらに大きな謎となった。生きるのがわずか一年、二年なのに、これほど大きな神経系を持つ必要がどこにあるのだろうか。知性のための機構を持つコストは高い。それをつくるコストも、機能させるコストも非常に高くなる。大きい脳があれば学習ができるが、学習の有用性は、その動物の寿命が長いほど高くなる。寿命が短ければ、せっかく世界について学んでも、その知識を活かす十分な時間がない。ではなぜ、学習のために投資するのか。

目的論的 (teleological) に考えれば (生物進化論の主張はほぼ常に目的論的だ)、短い寿命でも大きな脳を持つ利点があるはずだ。Baldwin効果というのがある[3]。学習 (神経活動) が遺伝しうる行動に進化するという仮説。最近のOded Rechavi達の論文では、少なくとも、線虫ではそのような神経系が次世代の行動を規定する情報を伝える現象があるらしいことを示している[4]。しかもそれは小分子RNAの配列情報として伝達される。タコは線虫より随分長生きだ (線虫の寿命は約4日)。タコには刺激に応答して、神経系で小分子RNAや短鎖ペプチドを産生し、それらを生殖細胞に蓄え、次世代に伝える仕組みがあるのかもしれない。これは、ある種のLamarckian遺伝だ。線虫以外にそんなのが見つかると面白い。そういえば、Argonauteの由来になったArgonautaはタコの仲間だ。その和名の一つがタコブネ (蛸舟)。月の海原をぷかぷかと、旅のタコがゆきました、っていう感じが出ていて、しかもタコが何かを海の彼方に運んでいるのではと夢想させる幻想的な名前だ。タコは小分子RNAと関係が深い。

さて、次にロジェ・カイヨワの著作『蛸:想像の世界を支配する論理をさぐる』[5]からいくつか書抜をと思ったのだが、こんなことをしていると切りがないので、この本に関して一つだけ注目すべき点をあげる。それはこの本の内容ではない。誤植。この本には誤植が少なくとも14箇所もあり、そのうち、「蛸」の字が「蛹」になっているのが4箇所、「婿」になっているのが一箇所ある。誤植を見つけるのは私の趣味でもあるが、こんなにひどいのは初めてだ。国語ではタコは「蛸」の字を当てる。中国では「章魚」を使うそうだ。「t a k o」をMicrosoft Wordで変換しても「蛹」や「婿」は出てこないので、訳者の手書き原稿 (訳者は1930年生まれ) を見て、編集者・校正者 (editor, proofreader) が漢字のカタチだけから、蛹 (さなぎ) や婿 (むこ) の字を当てたのではないかと疑う。つまり、内容を全く読んでいない。中身を少しでも読めば、これはタコに関する文化的民俗学的考察の本であるのだから、蛹や婿が出てくるはずがない。エディターの質の低下またはエディターの不在。手書き原稿が直接印刷所に送られ、一度の校正もなく、印刷され出版された、ということなのではないか。いずれにしても、ロジェ・カイヨワの著作がこのような扱いを受けること自体が、私にとっては日本の“衰退”を象徴している事件だ。

最近、”Japanification”という言葉が世界的に経済界で使われている。元々、単なる“日本化”という意味だったのが、少子高齢化・人口減少の意味になり、そして” the transformation of an economy into one that follows the steps of Japan. In other words, it is a term used by economists that refers to falling into the same deflationary trap of collapsed demand that caused the lost decade”という意味で使われるようになった[6]。つまり、経済的に急速に衰退しつつある国、またはdying countryという意味だ。多くのいわゆる先進国が「明日は我が身」と恐れている状況がJapanificationという言葉で表わされている。世界のGDP総額に占める日本の割合は1990年には13.9%だったのが、2019年には5.9%になり、2050年には2%を切ると予想されている。

暗いねー、なにか明るい話題はないの?
たとえば?
たとえば、日本人はChojulin-1遺伝子の脳特異的エンハンサーのA to G変異のアリル頻度が異常に高く、この変異をCRISPR-Casを用いてマウスゲノムの相同領域に導入すると、そのマウスは生後すでに4年も経っているのに、元気一杯、回し車 (hamster wheel) の回転数でマウス1個体としてのギネス記録を既に大幅に更新し、さらに更新中である、とか。
そんなステキな話は無い (キッパリ!)。暗い話に戻ります。

今年のはじめに冷泉彰彦が『日本を衰退途上国に落とした5のミス』という論文を発表している[7]。それによると、私達が犯している最も大きな間違いは、過去の成功体験を記憶しているために、いつまでも「昔の発想の延長で」考えてしまう、ということのようだ。以下に彼が指摘する5つのミスを簡単にまとめる。

  1. 製造業から金融・ソフトといった主要産業のシフトに対応できなかった。また自動車から宇宙航空、オーディオ・ビジュアルからコンピュータ、スマホへと産業の高付加価値化にも失敗した
  2. トヨタやパナソニックなど日本発の多国籍企業が、高度な研究開発部門を国外流出させている
  3. 英語が通用しないことで多国籍企業のアジア本部のロケーションを、香港やシンガポールに奪われてしまい、なおかつそのことを恥じていない
  4. 観光業という低付加価値産業をプラスアルファの経済ではなく、主要産業に位置づけるというミスをしている
  5. 主要産業のノウハウが、最も効果を発揮する最終消費者向けの完成品産業の分野での勝負に負けて、部品産業や、良くて政府・軍需や企業向け産業に転落している

それぞれ説得力がある。私は特に「英語が通用しない、またそのことを恥じていない」という3番目のミスに反応する。

生命科学系では研究のやり方が仮説駆動型から大規模配列解析と計算科学による探索・データ駆動型へ移行している。つまり、最近の研究の主流は「仮説なし、endpointなし、方向性なし」の研究であり、これを支えているのは「偶然の発見、予想外の観察」という期待と「人間が予想し得る範疇にもはや大きな発見は残されていない」という諦観、諦めだ。このような潮流は論文の書き方にも影響する。私が大学院生の頃は「論文の英語はそれほど上手でなくてもよろしい、良い内容なら必ず採択されます」と言われたものだ。これは一つにはその当時のサイエンスが、生理活性または生物活性を有する因子の精製、その因子をコードする遺伝子のクローニング、それらを用いた試験管内再構成、そして、その遺伝子の変異体作製 (たとえば、KOマウス) とその表現型解析、といった比較的直線的かつわかりやすいやり方だったからだろう。一方、昨今のサイエンスは膨大なデータを喉越しの良いストーリーに仕上げることを求められる。もはや、ウエスタンブロットもノーザンブロットも32Pラベルもなにも必要ではない (少なくとも論文作成上は)。必要とされるのは、それら膨大なデータを膨大な数の図に仕上げ (supplementary figureが7つ以上、それぞれaからgまであるというのも珍しくない)、テキストを論理的にわかり易いお話にまとめ上げる構成力と英語力だ。さらに、エディターやレフリーと冷静かつ論理的に戦い、あきらめず、しつこく食い下がり、彼らを (礼儀正しく) 説得できる強い英語力が要求される。したがって、論文の書き方、出し方、売り方が変わってきている。最近、頻繁に、日本の研究者による論文数や被引用論文数が横ばい、または諸外国に比べ相対的に低下している、と言われる。私はその要因は単に文科省と内閣府指導による大学の疲弊と基礎研究費の枯渇のみならず、日本人研究者の英語力の低さではないかと疑っている。膨大なデータを論理的かつ喉越しの良いストーリーに仕上げる英語力の欠如。私達の英語の多くは、文法的には間違っていないので、英語圏の研究者にも理解できるはず、というレベルの英語なのではないか。英文校正を商売にしている会社が幾つもあるが、彼らが校正するのはほぼ文法のみであり、英語らしい表現、ロジックや文章の流れへの書き換えまではやってくれない。この英語力の低さの一因は、おそらく、ロジック、文章の構成と流れが日本語のロジックと英語のロジックでは違うことに起因している。『方法序説』、『純粋理性批判』、弁証法、二項対立、二律背反、否定神学、等々、一見ばらばらな多数の要素を一つにまとめ上げるまで考え抜くことに傾ける情熱 (気力) と体力の欠如、それが日本の文化の一面なのではないか。物を激しく考えることに必要性を感じない文化、明確に黒白をつけない、間 (あいだ) またはスペクトラムを大切にする、断言しない、ぼかす、陰影を大切にする、といった文化。それはそれで悪くないけれど、明らかに国際化とは異なる路線だ。

さて、最近、中国からの論文が洪水のようにトップジャーナルに出版されている。中国の人口を考えれば、これは当然のパイの取り分ということなのだと思う一方、それだけではないのではとも思う。つまり、人口が日本の15倍 (20倍かも) だから、単純に優秀な研究者の数もそれに比例しており、彼らがその実力を発揮できる基盤が整ったということだけでは説明できない何かがあるのでは。

昨年の夏、北京で開催されたエピジェネティクス関連の大きなミーティングに出席した。そのセッションの一つに、最近、上海にオフィス (“多国籍企業のアジア本部のロケーション”?) を構えたNature系ジャーナル (Nature Cell BiologyやNature Plants等々) のエディターが一堂に会して、それぞれがどのような論文を求めているかを説明し、論文の書き方や“売り方”を聴衆と議論するというのがあった (図2)。セッションの前半は英語で議論が進行したが、途中、聴衆の一人が中国語で話し始めるとそこからすべての議論が中国語になった。つまり、壇上のこれらエディターは全員中国語を話す。しかも見るからにネイティブだ。彼らの多くが米国でPhDを取得し、ポスドクを数年経験した後、生物科学系ジャーナルのエディターになった人たちだ。それぞれのジャーナルで数年経験を積み、さらには、ジャーナル間を渡り歩き、上海オフィスの開設とともに母国に送り込まれた、ということのようだ。このセッションを見た私の印象は、一言、「とても羨ましい!」


図2. Editors in Shanghai 

中国の研究者は母国語で自分の仕事をトップジャーナルに売り込める、そして、論文の書き方・売り方に関していろいろなアドバイスを貰えるのだから。母国語を使うことで、仕事の重要性を使い慣れた語彙を駆使して、微妙な陰影、ニュアンスまで伝えられるはずだ。ScienceやCell (及びその姉妹誌) にも中国系のエディターが何人かいる。彼らにお世話になったことがある人も多いと思う。でも、私達の大多数は中国語をしゃべれないし、英語もいまいちだ。CNSには日本人エディターは居ない (少なくとも私は出会ったことがない)。いつか、CNSのエディターとして活躍する日本人が出てくるのだろうか?東大を卒業して、Stanfordで学位を取り、MITでポスドクをやった後、CNSのエディターになるというのは、これからの研究者のキャリアパスの一つとしては重要かつ素晴らしいと思う。「研究の方向を決めているのは私たちだ」とか「ある研究領域の存亡の鍵を握るのは私達だ」という、ある種の全能性を感じる瞬間も訪れるかもしれない。私達に必要なことは、戦える英語力 (ロジック、構成力) を養う自己涵養、さもなくば、戦える英語力を有するエディターのリクルートまたは育成、そして、エディターとの密な関係の構築 (彼らがどのような論文を求めているか、どのように素材を料理すれば、魅力的な論文に仕上がるか等々) ではないのか。日本の大学・研究所がトップジャーナルのエディターを引き抜き、Director of Research ProgramsとかPlanning Director、またはExecutive Strategy Officerという職を与え、研究の活性化を図るということは良い選択だ。米国では、有名大学によるCNSエディターのこのような引き抜きが盛んに行われている。でも、日本に来ることが彼らのキャリアパスの一つとして魅力的かと言われると、私にはわからない。それに日本の大学にはそんな経済的な余裕はないし、文科省や内閣府はそんな考え (単にお金の問題だけでなく) はないだろう。

いっそ、このまま、無策を貫き、国際化から緩やかに遠ざかり、ガラパゴス化 (またはある種の鎖国) を進めることで、独自の文化を創生するという手もある。100年後には江戸に開花した独自の文化のように海外に多大な影響を与えるような文化が芽生えるかもしれない。浮世絵のような。

ところで、この5月にCold Spring Harbor Laboratory Meeting on Regulatory & Non-coding RNAsがvirtual Zoom Meetingとして開催された。日本時間では常に真夜中から明け方に発表や議論が行われ、なかなか、辛いものだった。三日目だったか、朝3時頃にボーッとセッションを聞いているとNikolaus Rajewskyの発表が始まり、一枚目の講演タイトルのスライドに吸盤が顕著なタコの足が出てきて、ひっくり返りそうになった。私には何が発表されるのかがすぐに分かった。タコのtranscriptome解析を始めたというお話。やはり、先端を開拓していく人は“いつかそのうち機会があれば”なんて悠長なことは考えない。思い立ったが吉日、っていう行動力こそが全てだ。でも、『タコの知性:その感覚と思考』という本を読むと、日本にはタコ研究の伝統があり、タコ研究者が結構いることがわかる[8]。また、彼らの精進と努力により、いろいろな飼育法、実験操作技術、行動解析法等が開発されており、ここにゲノム解析とゲノム編集を持ち込めば面白い研究ができそうだ。これこそ、新学術創生だと思う。誰かやらないか?

さて、上にとりあげたタコ関連の3冊の本には、いずれも、タコの視線が考察されている。タコが“熱い視線をヒトに送る”ことは世界の多くの人々が、古の時代から、感じてきたことのようだ。石牟礼道子の『苦海浄土』に水俣の海が美しく豊穣だったときのことを回顧する老漁師の話がでてくる[9]。

 舟の上はほんによかった。
 イカ奴は素っ気のうて、揚げるとすぐにぷうぷう墨ふきかけよるばってん、あのタコは、タコ奴はほんにもぞかとばい。
 壺ば揚ぐるでしょうが。足ばちゃんと壺の底に踏んばって上目使うて、いつまでも出てこん。こら、おまや舟にあがったら出ておるもんじゃ、早う出てけえ。出てこんかい、ちゅうてもなかなか出てこん。壺の底をかんかん叩いても駄々こねて。仕方なしに手綱の柄で尻をかかえてやると、出たが最後、その逃げ足の早さ早さ。ようも八本足のもつれもせずに良う交して、つうつう走りよる。こっちも舟がひっくり返るくらいに追っかけて、やっと籠におさめてまた舟をやりおる。また籠を出てきよって籠の屋根にかしこまって坐っとる。こら、おまやもううち家の舟にあがったからはうち家の者じゃけん、ちゃあんと入っとれちゅうと、よそむくような目つきして、すねてあまえるとじゃけん。
 わが食う魚にも海のものには煩悩のわく。あのころはほんによかった。
 舟ももう、売ってしもうた

「上目使うて」、「駄々こねて」、「かしこまって」、「よそむくような目つきして、すねてあまえる」。このような表現がまさにヒトが感じるタコの“熱い視線”の解釈なのだろう。でも、なぜ、ヒトはタコがなにか意味のあるメッセージを送ってきているように感じるのだろうか?それは私達が似ているからだよね、タコに、おそらく。

(2020年7月)

 

文献:

1. Hagit et al., Massive A-to-I RNA editing is common across the Metazoa and correlates with dsRNA abundance. Genome Biology 2017, 18:185.  DOI: 10.1186/s13059-017-1315-y

2.『タコの心身問題』ピーター・ゴドフリー=スミス(Peter Godfrey-Smith)夏目大 訳(みすず書房 2018年)

3. https://en.wikipedia.org/wiki/Baldwin_effect

4. Posner et al., Neuronal Small RNAs Control Behavior Transgenerationally. Cell 2019, 177:1814-1826. DOI: 10.1016/j.cell.2019.04.029

5.『蛸:想像の世界を支配する論理をさぐる』ロジェ・カイヨワ(Roger Caillois)塚崎幹夫 訳(青土社 2019年)日本文化がタコと深い関係にあることを、葛飾北斎の蛸の戯絵等を題材に、考察している箇所がある。

6. https://en.wikipedia.org/wiki/Japanification

7. https://www.mag2.com/p/news/435058

8.『タコの知性:その感覚と思考』池田譲 (朝日新書 2020年)著者は琉球大学理学部教授。

9.『苦海浄土:わが水俣病』石牟礼道子(新装版 講談社文庫 2004年)“もぞかとばい”とは可愛いという意味。