RNA関連のブログや会報に掲載されるエッセイを読むと、質の高いサイエンスをしている人のエッセイには愛が感じられます。なにかをやり遂げるには「愛された、いつも見つめてもらっていた、守られていた」という幼い時の記憶、または思い出すことは既に難しいがどこかに生きている感覚が大きな助けになるのかもしれません。これは、また、子どもの時にどれだけ「触れる機会」を与えられるかということにつながるのかもしれません。小さな時に「その感覚」を身につける機会を持つことが思考の癖や刺激への反応のパターン、つまり、発見につながるセンスの形成に不可欠なのかもしれません。
私は三好達治の「乳母車」(詩集『測量船』)という詩の、特に出だしの二連が好きです。
母よ――
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかって
轔々と私の乳母車を押せ
萩原朔太郎は次のように語っています。
「老子の道徳経の中で、人は皆名利を思い、栄達富貴の功名を愛するけれども、《我レ独リ人ト異リ、無為ニシテ母ニ養ハレンコトヲ希ヒ願フ》といふ章があるが、三誦して涙を流し、しみじみ僕のことのやうに痛感する」(「ある文人学者の肖像」富士川義之)
正岡子規が死ぬ前に自分で書いた墓碑銘には同様の章が見られます。
正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名ハ升
又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
又ノ名ハ竹ノ里人伊予松山ニ生レ東
京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
馬廻リ加番タリ卒ス母大原氏ニ養
ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
□月□日没ス享年三十□月給四十圓
写真の石は私の母が二十年ほど前、中国を旅行した際に、揚子江河畔で拾ってきてくれたものです。この石を眺めていつも思うことは、母はいつどのように、私が石を集めていることを知ったのだろうか? しかも、私がどのような石を好むかがなぜわかるのだろうか? 私は何かを拾ってくる子供だったのか。
(2015年9月)